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じゃくしつげんこう いっきゅう          そうじゅん
寂 室 元 光 一 休 さん ( 宗 純 )
ほん あみ    こうえつ たくあんそうほう
本 阿 弥 光 悦 澤 庵 宗 彭
からすまるみつひろ こぼりえんしゅう
烏  丸  光  廣 小 堀 遠 州
しょうかどうしょうじょう そ  く  ひ
松 花 堂 昭 乗 即   非
このえ  もとひろ お ぎ う そ ら い
近 衛 基 熈 荻 生 徂 徠
ぎおん なんかい かつ かいしゅう
祇 園 南 海 勝   海  舟
みやじま えいし
宮 島 詠 士
じゃくしつげんこう
寂室元光   「 1290 〜 1367 」

滋賀、永源寺の開山、元光が入寂(にゅうじゃく)するとき門弟たちに書き与えた遺誡(ゆいかい)の最後に記した署名です。このような禅僧の書はその特性上、署名と言えどもうったえるもの大です。一画一画に気が入っていると言いますか、紙にくい込んでいて、ゆるぎない心境をのぞかせており、見るものの胸に迫るような迫力があります。

迫力といっても、いろんな表現方法がありますが決して派手なものではなく、落ち着いた静けさの中に意志の強さを感じさせるものです。こういう書を見ると、書は 『上手い下手 』 ではないと感じ入ります。
また、全体のおさめ方は、この署名三文字の中心部を幅狭くして上下に広がりを見せ、引き締まった形でスッキリした要素となっています。

寂室叟  「 画像は平凡社・書道全集・22より掲載 」


いっきゅうそうじゅん
一休宗純    「 1393 〜 1481 」



狂雲子筆

アニメなどでおなじみの『一休さん』のサインです。テレビ等では、かわいらしく機転のきく小僧さんですがその実像は、当時の禅に対してその頽廃を嘆き 、一休の激しい情熱と言動は奇狂なもので、狂人のような奇行が多かったと伝えられています。そして自らの号を『狂雲子』と称し、彼の書はまじくしいものでその『み』は 『恐ろしさ』 さえ感じさせます。サインはもとより自身を『狂』と名付け人並みはずれの言動をとった一休が狂なのか、世間が狂だから自身が狂に見え『狂雲子』としたのか、そのことに興味深いものがあります。

一休の書は、書の法をはなれ、それだけではなくさらに反抗的な ものを表しているといわれます。そして、禅僧の書蹟の中でもとくに異彩を放っており一休自身がそうであったように、その書も反抗的なみを感じさせるのに十分なものです。


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「 画像は平凡社・書道全集・20より掲載 」



ほ ん あ み こ う え つ
本阿弥光悦 「 1558 〜 1637 」



大虚庵 光悦(花押)

これは俵屋宗達の描いた絵に、光悦が古人の歌を書きその後に署名したものです。光悦の書といえば 『 肉太で大きく、細く小さく、離れた文字群 』 というイメージでその豊満さが印象に残ります。そのような変化を求めたようですが、この署名も当然のことですがその域のものです。立派な下絵の上に歌を書き、桃山文化の豪華さの中に平安の 『 雅 』 を取り入れた作品のサインです。

よけいな事と思いながらサインペンで書いてみました。(下部・図)
『 光悦 』 の二字については、古典の中に、このような造形のものが多くあり文字性として問題はありませんが、下の花押(かおう)は文字として成立し得ないもので、手書きの印判のようなものです。 この花押は、平安から江戸にかけて天皇から、貴族、武士、光悦のような町家の才人にいたるまで多く使用しているのが見られます。それぞれ自分なりの花押を書いていますが、多くは文字としての機能をはたしていません。

「 画像は平凡社・書道全集・22より掲載 」


花押について  ≫≫

たくあん  そうほう
澤庵宗彭 「 1573 〜 1645 」



澤庵野老

沢庵漬(たくあんづ)けをはじめた沢庵和尚の署名です。『無一物』と書かれた扁額の落款で、本文と共にきわめて平凡なものです。の禅林墨跡によく見られる太い線で『意』のこもったものや書の『格』を離れて気力で押しきっていたようなものではありません。
『一休宗純』の(すさ)まじい峻厳(しゅんげん)さはなく、『慈雲』(じうん)のように書の格をはずして紙面に『』のすべてを投げ出 した様でもありません。京都大徳寺の154世という立場ですが、禅林の墨跡らしくないもので常識的な筆跡です。しかし自分のことを( 野郎 )ではなく( 野老 )とあて字で、ののしっている( 茶目っけ )はユーモラスで沢庵和尚の人柄がしのばれるものです。

   「画像は平凡社・書道全集・22より掲載」



からすまるみつひろ
烏丸光廣 「 1579 〜 1638 」



光廣

左は、草仮名(そうがな)を使って和歌を書いている中程に署名したものです。仮名の作としては太い線で、強引に引ききった線が多く、落款も同様なものになっています。同じ貴族の書でも、平安の優雅な書風とは違い武骨な仮名作となっているのは 『 武士の世 』 という時代のせいでしょうか。

あるいは、光廣の 『 資質 』 によるものでしょうか。
光廣は藤原氏の一族として代々、和歌を家職として朝廷に仕え、幕府と朝廷間を斡旋し家康や秀忠に厚遇されたと伝えられています。この書から受ける、何事も 『 一気に押し進んでいくような気風 』 とは逆に、常に幕府と妥協的な態度をもってのぞんだといわれ、この光廣という宮廷文化人はどのような人だったのか。豪放磊落(ごうほうらいらく)と伝えられていますが、海千山千の食えない男だったのかも知れません。


「画像は平凡社・書道全集・22より掲載」



こぼり  えんしゅう
小堀遠州 「 1579 〜 1647 」




小堀遠江守

左は連歌師の里村昌琢(さとむらしょうたく)にあてた手紙の末尾に書いた署名です。
サインの『遠江』(とおとうみ)は、父の代から普請奉行であり、秀吉・家康に仕え駿府造営奉行の功により『遠江守』に任ぜられたもので 『遠州』 と称したのもそのためと言われています。遠州は城郭や庭園、茶室などの設計構築に終始 した人ですが古田織部について茶事を習熟した後秀忠の茶道師範を勤め『利休・織部』とならび三大茶人と称されています。

このサイン、なかなか読みづらいものです。遠州は書において、定家の追随者と評されていますが『小』などは重心を高くし、脱俗的な個性ある独自の風になっています。漢字の文字性から言って問題はないようですが草書の形態を知っている人でも、なかなか読むのは困難です。

具体的な文字でいいますと『堀』字について、本人は草書の形で書いているようですが『土偏』の縦面上部が突きでていなかったり、一画目の横画があるのか無いのかわかりません。同様に旁にある『出』字の一画目ヒッカケがありませんし、縦画も上部に出ていませんから『堀です』と言われなければ納得出来る文字ではありません。まあ、こんな小難しいことをいうよりサインというものはこのようなものかも知れません。

「画像は平凡社・書道全集・22より掲載」



しょうかどうしょうじよう
松花堂昭乗 「 1584 〜 1639 」




昭乗

松花堂とは晩年の号で、滝本坊昭乗(たきのもとぼうしょうじょう)自身が世から退いて、移り住んだ方丈(ほうじょう)『 室 』 の名で、昭乗はその法名であります。左は歌二首を書いたものの冒頭に署名したもので僧としての高い澄徹した心境を匂わせ、造形の巧みさと相まって清浄な感がします。

「昭乗」は、「本阿弥光悦」や「近衛信尹」(このえのぶただ)とならび『寛永の三筆』として書道史上位置づけられていますがさすがだと感心します。一方で他の作品群(滝本流・松花堂流) などと呼ばれて流行し空海をしたような表現過剰なものとは違います。

「画像は平凡社・書道全集・22より掲載」



そ く  ひ
即非 「 1616 〜 1671 」



黄檗即非
中国の明代、福建省の黄檗(おうばく)山に入り隱元(いんげん)に従い渡来した即非が、法語を書いた末尾に署名・落款したものです。

左の下の文字群、最後の方が三行とも左下方に流れているのは書きはじめの五行が下の方で右によっているのに対応しているものです。

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「 画像は平凡社・書道全集・22より掲載 」



こ の え  も と ひ ろ
近衛基熈 「 1648 〜 1722 」




左大臣藤原基熈

懐紙二首(かいしにしゅ)
懐紙とは、(たた)んで懐中にした紙でありますが、公式の歌会において用いられたもので即興の歌をしたためた紙のことです。二首とは書かれた歌が二首ということで、最初に歌の題を書き、次に作者名、そして歌を書くように書式が決まっていたと伝えられます。懐紙は身分によって、紙の大きさや寸法を異にしたと言われています。歌二首を書いた冒頭にその題を記 し次に署名しているのですが、このように文字の中程を極端に細くつめて書く手法は『藤原』宮中の貴族に多く書かれ、様式化していたようです。

この、どちらかと言えば自信に満ちたあまったるい和風の書ですが、ひとつの習気と形式にとらわれ唐様の漢字とは少し違うものです。

「 画像は平凡社・書道全集・22より掲載 」



お ぎ う  そ ら い
荻生徂徠 「 1666 〜 1728 」



京都物茂卿

署名の『物茂卿 』は本姓が『物部』であるところから『物』氏を称し、『茂卿』 は(あざな)で唐風の名を用いたものです。筆勢にまかせて書き続けたものではなく派手なところはありませんが剽軽(ひょうきん)な造形をまじえながら落ち着いた風格あるものです。

線質について巧みだと感心させられる点は、『東都』から『物』で細くして息抜きをしています。それも『都』の下部左に細い線があり、『物』の中にも同じような線質をもってきて対応しています。また『物』の中に上部と同じ線質の太い線を入れ『茂・卿』とだんだん太くして上部と同じような線質でまとめています。中程の『物』は上部と下部のつなぎ役をはたしていると同時に明るく息抜きをして下部につなげているものです。大きな屏風に満身の力をふるって書いた後の署名落款にしてはすこぶる落ち着いたものでじっくりめられる作品です。

「 画像は平凡社・書道全集・22より掲載 」



ぎおん  なんかい
祇園南海 「 1677 〜 1752 」


南海老人題

南海が書いた画に讃を書き署名したものです。代々紀州藩の医者として仕えた父に従い幼少時に江戸に出、十四歳のとき木下順庵の門に学んだと伝えられています。南海は詩や書だけでなく山水画にもたくみで中国的な『文人』と言われるにふさわしい人物で左は署名がある全体の『竹図』です。


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「 画像は平凡社・書道全集22より掲載 」



かつ  かいしゅう
勝 海舟 「 1823 〜 1899 」


海舟散人

半折ほどの紙に鑒誡(かんかい)()を二行書きした後の署名です。
鑒誡 とは、いましめの意で、幕府の咸臨丸艦長として米国に渡りその後軍艦奉行として西郷隆盛らとわたり合い、江戸の無血開城に力した海舟像は大きなものですが、本文を子細にながめますと、幕末の動乱期にさまざまな決断を下した海舟とは思えないほど神経の細やかさが表れた作品のサインです。
海舟の著である氷川清話に出てくるような、江戸っ子風のことばで次々と飛び出してくる語り調子の人とは少々違う人物像を感じますが、大胆にして行きとどいていた人なのかも知れません。拡大画像の右は署名のある作品です。

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「 画像は平凡社・書道全集・25より掲載 」



みやじま  えいし
宮島詠士 [ 大八 ]「 1867 〜 1943 」


宮島大八      詠士

詠士は清國に渡り、張廉卿(ちょうれんけい)に直接師事し、その神髄をきわめた人です。また、中国問題について強い信念と理想をもって中国の要人や日本の各界から師父と仰がれた国士であります。
左は5.15事件で凶弾に倒れた犬養毅の頌徳碑を詠士が揮毫したものの択本の署名ですこの択本の楷書体は中国の初唐に完成された『九城宮』や六朝風、主に『張猛龍碑』を加味されたもので詠士独自のものになっています。

拡大画像の右は詠士の作品と落款です。
私も詠士の小品を一つ持っていますが、この清冽毅然とした風格と気韻をそなえた詠士の書は非常に激しい筆使いの中で『がさつ』なところがなく落ち着いた緊張感があるものです。

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「 画像の択本分は岡山県郷士文化財団・犬養公之碑より掲載 」
   「 落款のある作品は平凡社・書道全集・25より掲載」

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